半年ぶりの天川村訪問です。
今回は、天和の里の上西さんに、西部地区の現場をご案内いただきました。
とても貴重な現場見学でした。
本ブログでも、写真盛りだくさん、ドライブレコーダーの動画も交えて、現場をご紹介します。
西部地区の現場を見ることが目的なので、今回は、五條市側から天川村に入りました。
以下は、天川村に入る直前にある「猿谷貯水池」。天川村からの天ノ川の水が溜まっています。
このすぐ脇に、大塔コスモ観測所があります。
五新線という開通しなかった鉄道のために掘られた天辻トンネルを、宇宙線の観測所として活用しているそうです。
天川村に入り、集落があるところは、超ゆっくりと車を走らせます。空家が多いことに、改めて気づかされます。
天川村に入って最初の停車場所は広瀬です。
下の写真、奥に見える九十九折の坂道が特徴の集落です。
上西さんにご案内いただけるとは思いますが、一旦停車。美しい風景に浸ります。
遠くからよく見えた九十九折の坂は、下からはよく見えませんでした。
次は不動の滝。
観光資源ではありますが、車を安全に止める場所もなく、動線を作るのも難しそうです。
次は、みずはの湯。ウッドデッキエリアができていました。
ここから見える景色も、とても美しいです。
キャンプシーズンはお客様が来ますが、閑散期の稼働に大きな課題があります。
途中、栃尾あたりで、桜が花びらを舞い散らせていました。
今年の天川村の桜は、例年よりかなり早く咲いたそうです。
少しだけ車を止めて、写真をパチリ。
舞い散る花びらが、小さく写っているの、わかりますか?
動画で撮るべきでした。。。
昼ごはんは、南日裏の「喫茶みつば」。
伊藤さんが作ったお米で握ったおにぎりを、お昼ご飯としていただきました。
伊藤さんは、地域おこし協力隊として天川村に来られて、そのまま移住され、このキッチンカーでの喫茶を始められました。「これから上西さんに、西部地区を案内してもらう」ことをお話しすると、昔西部地区の地域おこし担当だったそうで、色々お話を頂きました。
塩野から見る風景がとても大好きだったとのこと。あと、落石が尖っているので、タイヤで踏まないように、アドバイスを頂きました。
その後、天川神社に立ち寄ってお参りした後、天和の里に向かいました。
天和の里で、上西さんより、天川村全図を用いて、今回見学するエリアの簡単なレクチャーを受けました。そして、西部地区の現場見学が始まりました。
最初は、山西地区。
ここは、3つの集落に分かれていました。多くが空き家です。
この空き家、水周りに課題があるそうです。
五右衛門風呂とポットン便所。なかなか現代人が住むのに大変な環境であり、ここに合併浄化槽を設置し、水洗化しようとすると、百万単位で費用がかかってしまうそうです。
耕作放棄地もありましたが、どれも家の近くにあり、そこに住んでいるから耕作していた土地。住んでいない人が、わざわざここまで来て耕作はしない。そう上西さんは話をしていました。
肥えを畑に撒いていたから、ポットン便所だった。これを自給自足として楽しめる人でないと、暮らすのには厳しい環境であると感じました。
次に広瀬に向かいました。
広瀬は4世帯。麓にしか人が住んでおらず、これから登る先は全て空き家とのことでした。
広瀬の一番上からの眺めは最高でした。
でも、上西さんが指差す先には、家を出るときに、畑に植えた杉の木が。
当時は木に価値があったので、植えた杉の木。それがそのまま、大きな木に育っていました。
これが、森と畑を近くし、獣害の原因にもなっているそうです。
屋根が朽ちている家もありましたが、まだまだ立派な家も残っていました。
そして広瀬を愛する人たちが、桜を植えていました。
少しでも、広瀬が美しくなって欲しいという願いだと感じました。
広瀬から塩野へ向かいました。
塩野は、奥田さんの実家のある集落です。
上西さんは、奥田さんのおばあちゃんが作った野菜を、洞川温泉まで売りに行っていたそうで、とても深いご縁を感じました。
塩野も空家が多く、耕作放棄地は荒れていました。そして、杉の木が植えられている場所もありました。耕作されている場所もありましたが、獣害防止のため、電気柵が。。。これは大変だ。。。
栃尾や和田くらいまでなら、空家を借りての移住も考えやすいですが、塩野まで来ると、なかなか厳しいものがあると感じました。
塩野の一番奥まで行って見ました。
ここは、昔、イノシシ牧場だったそうです。車を止めた場所の建物で、屠殺し食肉加工していました。
ここには、1世帯、畑をしながら住んでいる方がいらっしゃいました。
塩野を下りて、今は誰もいなくなった、塩谷に向かいました。(途中でドライブレコーダーは止まってしまいました)
塩谷の入り口です。
天川村の観光案内図で、西部地区全体を確認しました。
西部地区は10の集落がありました。
西から、
塩谷(無人)、塩野、滝尾(無人)、広瀬、山西、庵住、籠山、和田、栃尾、九尾
です。
2つは人がいなくなり、今は8つの集落になっていました。
これからは、現場見学の目的が「集落の現状」から「すずかけの道の現状」に切り替わります。
「すずかけの道」とは、高野山と大峰山を結ぶ「大峯高野街道」の別名です。
以下の地図の、青い線がこれにあたります。
この青い線は、もちろん、今の経路案内なので、県道が整備された後の「すずかけの道」です。
歴史ある街道なので、古道が存在しています。
これを見せてもらいに行きました。
無人の塩谷に向かいますが、無人なので、道は管理されていません。
尖った石や落木を取り除いて、車を進めました。
古道が天川村に入る入口は、この吊橋になるのですが、もう使われなくなったので、朽ちていました。
吊橋ができる前は、沢を渡っていたのだと思います。
天川村に入ったすずかけの道は、この山の斜面を上がり、塩野、滝尾、広瀬と続き、不動の滝あたりで対岸に渡って、山西に至っていたそうです。
古道ではない今の道ですが、イメージのために、以下参考にしてください。
2つめの地図の九尾までが、西部地区になります。
その奥には、旧塩谷中学校がありました。
そこまで車を進めました。
今は更地になっていました。
そして、山西の古道に向かいました。
山西の古道は、維持管理されていないのですが、歩けなくはない感じでした。
昔あった旅籠の跡も石垣としてしっかり残っていました。
その跡地にも、杉の木がしっかりと生えていましたが。。。
ここの旅籠は2軒。それぞれを兄弟がやっていたそうですが、兄弟で喧嘩の様に争い、兄が負けてしまったというエピソードもあるそうです。
山西に住まわれている、90歳代のおばあちゃんに、話を聴きに行ったりされているそうです。
この古道は、歴史的価値が高く、きちんと整備すれば、熊野古道同様の評価になるとの声もあるそうです。歴史を学びながら、楽しみながら、整備をするツアーもできるのではないか?と感じました。
上西さんに13時から17時まで、4時間がっつりと、ご案内を頂きました。
とっても贅沢なツアーだったと思います。
今後について、上西さんとお話ししましたが、急がずゆっくりやりましょう!ということになり、南山城村の見学も、10月以降に実施することにしました。
このツアーを満喫するため、これ以外の予定は入れてなかったのですが、山西で古道を歩いている最中に、2件の連絡が入りました。
「天川村に来ているのなら、お話しましょう!」
というお誘いでした。
嬉しいですね!
早速、坪内「おおとり」での、近況報告会となりました。
おおとりオーナーの山本さん、地域おこし協力隊の浅川さんと、小野田さんです。
ここでの近況報告会の内容の詳細には触れませんが、それぞれが、それぞれの人生の目的に向かって、進んで行っており、出会いによる化学反応がエンジンになっているのは確かな様でした。
すっかり遅くなりましたが、最後は、山を下りて、台湾料理の店で、ラップアップしながら、美味しいボリューム満点の食事を頂きました。4人以下のマスク会食でした。
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