番外編:天野星来さんのオンラインデスカフェ 2022.3.28
- 下川哲平
- 2022年3月28日
- 読了時間: 7分
更新日:2022年6月26日
FACEBOOKのイベントで偶然みかけた『オンラインデスカフェ』。

なんだかこれには参加しなければいけない気がする・・・ 大学生向けだったのですが主催者の天野さんに快く受け入れていただき参加しました。
結果として、本当に豊かな示唆をいただき、そして素敵な出会いの場になりました。
メモを残しておきたいと思います。 ※注:あくまで私のメモなので発言者の発言を再現したものではありません。また発言者の真意とは異っている場合があります
主催者:北海道教育大学、天野星来さん。人生の岐路に立つ学生に対して、デスエデュケーション(死生観教育)を通じて、生きることを考える機会を提供。 将来は小学校に死に関する教育をしたい。
講師:不徹寺庵主 松山照紀さん
死の見方は3つある。一人称:わたしの死。二人称:家族。三人称:事故でなくなった誰かや遠くの災害。
死は体験ができない。想像することしかできない。いいところだから誰も帰ってこないと思っている。
生まれる、死ぬというのは、絶対受動の世界(絶対に選べない)生まれて死ぬ変えられぬ現象。
死を学ぶことで、今どう生きるか。死に際にどうするか。を考えることができる
死とは? 肉体の死、精神の死、社会と断絶の死。いろいろある。その捉え方は個々で変わる。
心と魂は同じ?肉体は滅びても魂は滅びない? 自分の思いが入る=心。自分の自覚。自分の感情、価値観が入ると心。 潜在意識を入れた大きなもの=魂。もともとある清らかな心。格好をつけて泣いている赤ちゃんを見たことがない。あるがまま。これが魂と呼ばれてもいいもの。
看取りについて ターニングポイント=コロナ。最期のお別れができない。突然の分断。お骨になってしか帰ってこない。これまでに無い看取りが誕生した。新たに考えなければならない看取りの形。
看取りとは、命を継いでくれたことを自覚する場面。=死の別れ際。看取り。 緊張感が非常に高い。これが最期だという究極の緊張感。感受性が最高度に高まる。
これまでは別れの瞬間が看取りだった。コロナになってできなくなった。コロナにかかってない人すらも、コロナに対応させざるを得ない医療現場。
看取りで起こること。お礼も最大のお礼になる。謝罪も最大の謝罪になる。逝く人も見送る人も。特に、残された人にとってその後に大きな影響を及ぼす場面。
平和な時代が長く続いているからこそ、特別感が高まっている。戦時中や医療がなくすぐに人が死んだ時代とはまたぜんぜん違う 朝送り出すとき、まさか死んで帰ってくるなんて誰も思っていない。今の時代だからこそ。 でもコロナで変わった。看取れない。顔も見れないお骨の状態で帰ってくることが出てきた
その捉え方は時代とともに変わっていいもの
近年はお家で死にたいという希望。になってきていた。。。それがまたコロナで変わった。
時代が変わっても、唯一絶対に変わらないこと。 我々が生まれて死ぬということ。個人的・社会的・価値観は時代で変わるが、生まれたら死ぬ。これは太古の昔からかわらない。
多くの人がどのように生きるかを迷い、悩む。しかし、生きることそのものが目的と考えることが大切。外側に目的を求めると迷う。何も考えなくても生きられる。家がなくても仕事がなくても、悲しくても苦しくても、心臓の動きはコントロールできない。
若いときは死ぬことが怖い。 年をとると死ねる幸せに気づく。知人・友達が死んでいく、失うものがどんどん増える。子供を先に亡くすこともある。自分だけが取り残される。200歳まで生きたら幸せではない。 次の世代にバトンタッチしていける。それが死の在り方。
若い人へ 同じ顔、同じ心、同じ姿で生まれ変わることはない。今の命をとことん使い切ってほしい。

日本人ならではの死生観=迷惑をかけたくない。 特に日本人は老若男女どの世代にアンケートをとっても見事に同じ。迷惑をかけたくないが1位。でも迷惑をかけずに死ねる人などいない。どんどん迷惑をかけてください。
大切な人をなくして苦しんでいる人に 悲しんでいる人が一日一日少しずつ立ち直っていくのを見守ってあげる。助けるのは難しい。できない。自分もはまってしまう。立ち直るのは時間が必要。一緒にまつ。
身近な人の死とどう向き合うか。 亡くなってから自分を責める人がいるけど亡くなってからはなにも解決しない。自分の時間を身近な人に注ぐ。死が迫っているなら5分でも顔を見にいく。時間こそが尊い。時間が感謝に変わる。
どのラインから死とみなすか。 脳死時の反射運動(科学的な死)でも、生きていると希望を持ってしまう。科学的死を医療側がどう伝えるかは医療者の課題。手を握ったら握り返した。このようなことで死を認めらなくなる。
うつ病 自殺を考える人への寄り添い方。(松山さんは)もし本人が本当に死にたいと思っていたのなら、その人の望みが叶ったんだと思うようにしている。難しいのは残された人のケア。 なんど試みても死ねなかった人がいる。13階から飛び降りてもまだ生きてるんですね。寿命がある人は自殺をしても不思議と命がつながる。なので本当に死ねた人は望みがかなったんだと(坊主になってから)思うようにしている。
死を見ることなくして、生きることを真剣には考えられない。医療が、生まれることと死ぬことを断絶してしまった。 生まれるときには立ち会い、付きそう。同じように死も感動するものがある。良いお別れというものがある。死に際の最期の会話が人生にとって良い影響がある。 死がよくないという教育が多い。死があるから生がかがやく。
死なない世界を作ろうとしている感じがある。死ぬという真理は絶対に変わらない。科学がまったく追いついていないにも関わらず、あたかも自分たちが命を操作できるように錯覚している。科学ではどうにもならないことを認めなければらない。
子どもや弟子のように受け継ぐものがいると死の恐怖は和らぐのか? 命の煌きに触れると、死の闇が見えにくくなる。闇にいると光がよく見える。 受け継ぐものがあるというのは、光の中にいて闇を見ない、心が軽くなる。。。
突然の死について。いつどこで誰が死ぬかわからない。のが死の特徴。時々死について語るというのは準備教育になる。
イキイキと生きるためには? こだわらないことですよ。思い通りにならないと怒り、不満がある。怒りっぽい人は思い通りにならないと怒る。腹が立つのは本能。それがコントロールできると幸せになる。欲望を手放す。そうするとあるがままに生きられる。
小学生の子供に死をどのように教える? 言葉では伝わらない。子どもは(大人と違って)あるがままを受け取ってくれる。 お葬式(枕経)のときに、こどもに遺体を触らせる。手を握る。顔を触らせる。大人は嫌がる。こどもは素直に触る。子供のほうがまっすぐ受け取る。亡くなったら冷たくなる。こどもはそれがわかる。この体験はこどもに大きく影響する。 もし身近に亡くなった人がいたら触れさせてください。一緒に触ってください。
(参加者)お葬式に子供は4名も連れて行くと、迷惑になると思っていた。親がなくなったときはある意味でチャンス。親の死が孫にとっての重要な意味になる。おじいちゃんおばあちゃんの最期の大切な役割。
(天野さん)自分が死んだら、葬式をオープン化してください。って日頃から周りに言ってる。
(小林さん)葬式の時に自分は遺体に自分が触れられるかな。絶対に触れないと思う。怖い。だから目を背ける。でもそれを避けてはいけないと思った。 (松山さん)無理にやると心が反対を向いてしまう。髪を撫でるところからやったらいい。

(松山さん)コロナについて 新しい価値観がうまれるかもと思った。新しい世の中になる転換期にきている。不謹慎だがわくわくしている。じいさんばあいさんは考え方を柔らかくしないといけない。
行動は能動。命が尽きるのは受動。余命3ヶ月と言われても10年生きることも。 科学では説明できない、宇宙の大きな真理によって、大きなるエネルギーを感じ取る。喜びとリンクさせる。
日本人特有の「迷惑をかけたくない」 迷惑をかけたくないという感情は必要がない。老人には、最期に必ず叶えられそうなことを望むようにと指導している。最期に望みを叶えてあげたということが残される人の生きるエネルギーになる。
出家は成り行き。ご縁があった。
福祉の問題。 福祉をうけて生活するのは自立心が前提。自立心をどうやって鍛えるかが大切。自分で立てるというところに福祉が加わると生きるエネルギーになる。自立がないと福祉に頼ってしまう構造になる。
松山さんが生まれ変わるとしたら人間になりたい? なんでもいい。六道輪廻でいうと多分わたしは地獄に行くと思う。地獄を楽しむ心を作ろうと思っている。
最後に。 いくつになってもやり直しが効く。心ひとつで、いくらでもやり直しが聞く。いつからでも何歳からでも効く、どん底に落ちても生きている以上やり直しが効く。どんどんチャレンジしてください!
死は、自己を超越した自己に戻ること。生まれたときのあの純真無垢に戻る瞬間。死は美しい。
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